第六章 死

第六章 死

 枕の横に常に死神が立っているような感覚で、私はその後の人生を過ごした。

 病魔が内蔵に達した時はいよいよかと思ったものだが、それから三十年近く、大きな変化もなく過ごした。リハビリセンターの中で、種々の事故や雑多なウィルスから隔絶され、完全に健康管理されて過ごす生活は、期待以上に私を長命たらしめた。

 私は七十歳を超え、外の世界は2075年になっていた。

 しかし老齢による衰えは避けられない。歯はすべて抜け落ちて面容が変わり、身体の肉も削げ落ちて骨が浮き出ている。頭皮には数えられるほどの毛がほよほよと頼りなく漂っている。

 銀色の義手は、もう装着することも困難になっていた。それでも手放せず、いつも傍らに置き、時折は話し相手にした。彼は老いることがなく、時折人工知能のソフトウェアが更新されるので相変わらずの博識ぶりを堅持していた。何よりもその美しいフォルムを描く銀色の造形は、三十年経っても見飽きることはなかった。

 食物を嚥下するより嘔吐するのが多くなり、吐瀉物にむせ返るようになると、いよいよ口からの食物摂取は打ち切られ、腹に穴を開けて直接栄養を流し込むことになった。吐瀉物で窒息したり、間違って肺に入って肺炎を起こすのを防ぐためだ。

 もはや食事という習慣に何も期待することがなくなって久しかったので、あまり抵抗なく受け入れた。意志を持つことすら億劫だった。医師の判断は絶対で、結局受け容れるしか無いのだから、いちいちそれについて思い悩むよりもさっさと順応するほうが無駄がないというのが、長年の間に学んだことのひとつだ。

 

 そんな、息をして思考しているだけの私に、ある日面会者が訪れた。

「こんにちは」

 彼女は言った。その声は少し緊張気味で、親しみや優しさは感じられず、透明感があった。

 少しの沈黙の後、彼女は続けた。

「母が死んだので、遺書をもってきたのだけど」

 私は混乱した。遺書?

 母とはこの女性の母親のことだろう。私の母はとうにいない。しかし彼女の母と私がどういう関係なのかわからない。

「ええと、……すみません、あなたはどなたですか?」

 めっきり会話の機会も減ってしまい、声が掠れる。

「多和田明日香」

 聞き覚えがない名だ。

「母は、真由香です」

 真由香。誰だったか、と思い出す前に、遠い記憶が脳内で音を漢字に変換する。

「真由香……」

 昔別れた妻の名だった。では多和田とは再婚相手の姓か。

 離婚した時に妊娠していたという子どもだろうか。真由香の娘が私に何の用だろうか。

 遺書を持ってきた、と言った。

 では真由香は死んだのか。

 ふと浮かんだ疑問を口にしてみる。

「明日香さん、あなた歳は幾つですか?」

「十九」

 彼女の年齢を聞いて、最初に感じた透明感の正体は若さだと気付いた。

 私はまた混乱した。

「明日香はあなたの娘ですよ」

 突然、快活な声が病室に響いた。

 こちらには聞き覚えがあった。

「まさか……河村先生ですか」

「はい、河村です」

「そんな……まさか」

「河村瑞希の娘で、瀬奈といいます。脳外科医をしています。お父さん」

 声の主は可笑しそうに言った。

「母があなたの精子を採取しましたよね。覚えていますか?」

「ああ……もう何十年も前の話です」

 私は記憶の中の河村医師を探した。眼が視えていた頃の彼女の姿はほとんど記憶にない。だが、声と肌の感触だけは鮮明に覚えている。どこまでも柔らかい肌。

 娘は母と同じ声で笑った。

「三十四年前です。母はあなたのことが好きだったんでしょうね。母は卵巣を取る前に卵子を凍結していたんだそうです。その卵子にあなたの精子を受精させ、代理母に産ませた」

 私はあの南国の女性を思い出した。

「私はアメリカで生まれて、そのまま向こうで育ちました。日本の病院では当時代理出産はあまりメジャーじゃありませんでしたから」

「それで、河村先生……お母さんは、今どちらに」

「私が十六歳の時、派遣先のアフリカの病院で爆破テロに遭って亡くなりました」

「テロ……」

 私は呆然とした。私よりずっと長生きすると思っていた女性が、十年以上前に亡くなっていたのだ。

「真由香は……真由香はどうして。それに子どもがいたはずだ、私と別れた時に」

 質問には、明日香の代わりに瀬奈が答える。

「母は当初、多和田真由香さんをお父さんの精子の卵子ドナーにしようと考えて、ずっと探していたんです。でも見つからなくて、結局自分の凍結卵子に受精させた。真由香さんの第一子は男児で、その後お子さんに恵まれることはないまま十年が経ちました。結婚から十年後、真由香さん夫婦は離婚され、長男の親権はご主人の側に渡っています。真由香さんは再婚することはありませんでしたが、子どもは欲しかったのでしょう。精子バンクにドナー希望の登録を行いました。そこで母がかつて検索した履歴が残っていて、冷凍されていたあなたの精子とのマッチングが実現したのです。当時真由香さんは四十五歳。妊娠出産にはギリギリの年齢ですね」

「まさか、真由香は自分で出産したんですか?代理出産でなく」

 私の精子を受精した受精卵が、妻の胎内で育っていたのか。私の知らないうちに。

「そうです」

「あの、精子が私のものだと……つまり離婚した前夫のものだと、真由香は知っていたんでしょうか」

 半分独り言のように、自分に問いかけるように私は言った。

「さあ、どうでしょうね」

「……知ってたと思う」

 それまで黙っていた明日香が口を開いた。

「ママは、パパの話をしてくれたから……どんな人だったかって」

 感情を押し殺したような声が、少しずつ涙声になっていく。

「小さい頃、あたしがしいたけ食べられないと、パパも嫌いだったのよって。だからしょうがないわねって。コンピュータ会社に入社したら、パパと同じ道を選んだのねって。一度も会ったことがなくても、アスにはパパの血が流れてるのねって言って」

 亡くなったばかりの母親の思い出が辛いのだろう、一度溢れると堰を切ったように嗚咽が止まらなくなった。

「抱き締めてくれて……」

 その口ぶりからは、妻が私に対して恨みや憎しみを抱いてはいなかったことが伺われた。多少の不満はあったにせよ。そう信じられる

「真由香さんは先月ご自宅で亡くなりました。乳癌だったそうです」

 泣きじゃくる明日香の代わりに河村医師が説明した。

「乳癌」

 私は病名を繰り返した。

 もうほとんど覚えていない、妻の乳房。

 私が拒んでしまった妻の身体。

 遠すぎる記憶の中のその身体は、三十手前の、ちょうど満開に咲ききった花の美しさを謳歌していた。

「乳癌?でも……でも私は生きているのに……」

 次に浮かんだイメージはなぜか河村医師のものだった。下腹に這う亀裂。母なる地球を切り裂いた大地溝帯。時を経て傷痕すらも美しく調和する。

「まさか……死んでしまっていたなんて。私より若いのに。私は……私はこんな身体で、まだ生きているのに……!」

 やりきれない気持ちに、自然と声が戦慄く。それは妻に対してであり、河村医師に対してでもあった。

「……その身体ですが、お父さん。今日ここに来たのはお父さんの身体のこともありまして」

「……はい?」

 感情の波が引くのに数秒掛かった。

「お父さんの身体は病気との追いかけっこにもうくたくたです。次に大きな問題が見つかったらたぶん助からない。体力的にも、そろそろ限界が近づいています。更に、この先病気が脳に転移しないとも言い切れません」

 そんなのは何年も前から自覚している。それよりも初対面の女性にお父さんと呼ばれるたびに、違和感とこそばゆさが背筋行ったり来たりする。

「そこで、脳に腫瘍ができる前に、お父さんの脳を脳死状態の患者ドナーに移植したいのですが」

「……はあ……」

 瀬奈の言葉に思考が追いつかない。

「これは私の研究も兼ねています。新しい身体をくっつけたからといって、すぐに使っていなかった機能が回復するかどうかは未知です。お父さんの脳は、失った機能に該当する部分の運動野が長年使われていない状態ですが、そこが移植によって回復するかどうかを観察したいのです」

 私は何を言えばいいのだろう。初めて会った娘の提案は、唐突で途方もなく、それ以上に「娘」としてではなく「医師」として「患者」に話しているように感じられた。彼女に「お父さん」と呼ばれることへの違和感はそこからきているのかもしれない。

 しかし、だからといって不快かと言われればそんなことはない。何の前触れもなく「お父さん」という役を演じることになり、思いがけない新鮮さが、それはそれで楽しい。

 では感動の対面を果たした娘の提案を大喜びで受け容れるかというと、それは別問題だ。何しろ脳移植。想像もつかない。さすがの私でも。

 私の沈黙は瀬奈を怯ませはしなかった。

「お父さんは母に、進化するために子どもを残すのだと言ったそうですが」

 そういうこともあったかもしれない。あの頃の私が進化に取り憑かれていたのは事実だ。原始脊索動物に自らを重ね、五億年前に確かに存在した、無限の進化の可能性を秘めた存在に憧れ、太古の海に思いを馳せていた。

「人類と医療の進化にご協力いただけませんか」

 河村瀬奈医師はそう言って、両手で私の頬を包んだ。

 私の、機能を失い落ち窪んだ眼窩が、私を見つめているであろう娘を虚ろに見返した。

 

 機能している部分が脳だけになっても生きている今、移植を望むことはすなわち人間の身体という形態・形骸に対しての執着に帰結する。

 手術室に向かう前に全身麻酔をかけ、全身を低温に保って手術が行われる。

 最後の眠りに入る前には、娘の河村医師がそばに付き添った。視えない両眼で私は懸命に彼女を見つめた。イメージの中で、母親そっくりの娘は愛くるしく笑っていた。

 胸の上には銀色の義手が一通の手紙を抱いていた。

 それはもうひとりの娘、明日香が携えてきたものだ。

 目が視えないと言うと、明日香は読み上げてくれた。その透明な声が永遠に耳に残る。

 

 

 

  死が二人を分かつまで、と、結婚式で誓ったとおり、

  私はずっとあなたを愛してきました。

  でも別れは必然でした。

  あなたの隣では歩めなかったけれど、

  明日香を通して、再びあなたと共にいられたのは幸運です。

  死を意識した今だから思える。

  愚かだと思うこともすべて、輝く人生の愉しみだったと。

  明日香はその象徴です。

  私達の、愛と愚かさに満ちた人生の。

 


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