第五章 心臓

第五章 心臓

「ちょっと見ないうちに痩せましたね。銀色の相棒くんの調子はどうかしら?」

 河村医師は相変わらず快活な声で言った。しかし、私の両眼はもはや彼女の笑顔を捉えることができなかった。銀色の義手は右手(即ち義手自身)を上げて「ハロー、ドクター」と挨拶した。河村医師は、まあ、と驚いてみせて、朗らかな笑い声を上げた。

 大学病院での定期検査は三ヶ月おきから一年おきになっていた。胃と腸の手術以来、全身の病状は安定していたからだ。

 しかし今回、心臓の発作で救急で運び込まれた。確かに度々、胸の痛みはあった。だが痛みはすぐに消えるし、我慢できないほどではなかったので、放っておいたのだ。

 発作から三日後、容態が安定したので、集中治療室から一般病棟に移った。そこへ河村医師が見舞いに来たのだ。私はベッドのリクライニングを起こして応対した。

「心臓ですって?」

「軽い発作で済んだけど、次は分からないそうです。当分入院みたいですね」

「そう……」

 河村医師の表情は白いもやがかかって判別できなかったが、その声色から彼女が笑顔を消したのがわかった。左脚を切る時の、あの余命宣告でもするような真剣な顔つきで今、私を見ているに違いない。

「……本当に、痩せてしまって」

「食べられるものがあまりないんです。胃を取ってしまって」

「食欲はない?」

 私は答えなかった。何か食べたいと思ったことなんて、一体いつのことだっただろう。

「吐き気がずっと続いていて。でももう大分慣れました」

 本人は半ば無意識だったのだろう。病床の病人を勇気づけようとした何気無い仕草だ。

 とにかく河村医師の掌が銀色の義手を包み込んだ。しかしそれは義手であったので、私に彼女の体温は伝わって来なかった。

 そのことに気付いたのか、河村医師の掌は義手を離れてふっと空を彷徨い、そして私の肩に置かれた。

「本当に……どうしてそう強くいられるのか……私なら」

「耐えられませんか?」

「どうかな。私は医者だから、受け止めやすいかもしれない」

「僕だって同じです。泣いて失ったものが戻るなら泣く。強いわけじゃないです。自殺なんてしなくてもそのうち必ず死ぬ。そこそこ食っていける仕事をしてきて、大望を抱いたこともないから、人生やり残したことなんて特にない。離婚して、家族もいない。残りの人生に絶望なんて」

「あ」

 義手が河村医師の背中に回り込んで彼女を抱き寄せた。

 私には義手が意思を持って動いたとしか思えなかった。

「……病気になるもうずっと前から絶望している」

 私は彼女の耳元に囁いた。自分の息が硬く小さな耳穴を震わせるのを口唇で感じた。

 河村医師は何も言わずに聞いていた。私の身体に体重をかけないよう、もう片方の腕で自分を支えている。

「別れた妻の料理が食べたいと思ったときには胃がなかった。抱きたいと思ったときには両腕がなかった。しかしこの義手をつけてやっとわかった。妻を抱けないのは腕がないからじゃない。妻を失ったからだ。腕を失くすずっと前に、僕は抱くべき対象を失っていたんだ。そんな当たり前のことに気づかずに、失ったものがこんなに必要だったなんて気づかずに」

 私は言葉を切った。声が震える。

「僕は……毎日のうのうと過ごして」

 妻が去った事実に向き合わないようにしていた日々が蘇る。仕事に明け暮れ、仕事がない日は酒に明け暮れ、さも何でもないふうに装っていた。

「腕を失くすまで、気付きもしなかった。こんなにも」

 嗚咽がこみ上げ、それ以上は言葉を継げなかった。

 河村医師は自らを支えるのをやめ、空いた手で私の頭部を包み込むようにして撫でている。

「先生、僕を憐れみますか……」

 祈るように言った。

 河村医師は、何も言わなかった。

 

 夜になっていた。しばらく眠っていたらしい。

 河村医師はもう帰ったのか。部屋の中は暗く静かだ。基本的に視えないので、自ら証明をつける意味もない。看護師が巡回する時につけては、出る時に消していく。

 水でも飲もうか、とコップに義手を伸ばしかけた時、気付いた。

 河村医師は傍らの椅子にかけて、銀色の義手を撫でていたのだ。

「起きたの」

「ずっとそこにいたんですか」

「ええ」

 仕事は大丈夫なのだろうか。そう思ったのが伝わったのか、

「今日は休みです。じゃなきゃ予約外の患者をわざわざ見舞う暇、ないです」

と河村医師は言った。

「先生」

「はい」

「僕、いくらか死亡保険があるんです。昔入った保険です。それを解約しようと思っています。マンションも売ろうかと」

 別れた妻と都内を探し歩いて買った新築マンションだった。こぢんまりしていたが居心地は良かった。購入時より価値は下がっているだろうが、保険が降りてローンは残っていない。

「……もう戻れる気がしないし。先生、受け取っていただけませんか」

「……どういうこと?」

「僕、子どもがほしいんです」

 河村医師は何も言わなかった。そこで私は身を屈めて、彼女に囁いた。

「先生、僕の子どもを産んでください」

 彼女がどんな顔をしているのか想像もつかなかった。

 河村医師は銀色の義手を撫でていた手を止めて立ち上がり、ドアに向かった。私はてっきり、寝たきりの病人のばかばかしい世迷い言に付き合いきれずに、病室を出て行くのだと思った。しかし、カチャリと部屋の鍵をかける小さな音がして、彼女は戻ってきた。

 ドアに付いた小窓から漏れる廊下の明かりのほかは光源がなく、部屋の中はほとんど真っ暗だ。

「……それは、私の子でなくてもいいんですか?」

「えっ」

 私の唇に河村医師の唇がやわらかく押し付けられた。いつの間にか河村医師はベッドに乗り、私に覆いかぶさっている。そのまま片手で私の頭を掻き抱き、もう片方の手で白衣の下のブラウスのボタンを手早くはずしていく。私の舌は彼女に導かれるままに細く長いうなじを這い、やわらかな乳房を貪り、腹へと滑り降りる。

 滑らかで張りのある皮膚の下に、適度な筋肉を薄い脂肪が覆う、健康そのものの身体。

 その下腹部を、麻縄のような傷痕が長々と横切っていた。

「私には子宮と卵巣がありません。だから、子どもは産めません」

 暗闇の中、彼女の顔もからだも視えなかった。

 私は、唐突に始まったこの夜の、想像もしていなかった結末に慄いた。

 白衣をはだけ、もはや医師ではない、私より若く美しい女性が、私の前に静かに座っていた。私は、今や私の最も鋭い感覚器であるくちびるをはたはたとふるわせて、その若く美しい腹を分断している隆起する亀裂をなぞった。

 そして私は、自らの病気を  否、病気によって奪われた身体を以って、彼女の優位に立ち、彼女を脅迫していたことを自覚した。

 私は喪ったことにより正義であり、彼女は健康であるがゆえに罪人だった。

 しかし彼女はその腹の亀裂を以って、私と平等になった。喪われた臓器を以って、完璧になった。

 そうだ。彼女は最初から私を平等にした。銀色の義手と出会ったあの日から。

 私は強烈な恥ずかしさに襲われた。手脚を失って以来さまざまなことがあったが、味わったことのない羞恥だった。

 己の精神の矮小さに打ちのめされる私の前で、彼女は静かに座り、神々しくさえあった。

「……私はあなたの子どもは産めないけれど、あなたが子どもを作りたいなら協力します」

 そう言って、河村医師はブラウスのボタンを止め、白衣をきちんと着た。

 

 河村医師はよく病室に見舞いに来るようになった。

 食事時に来ると少しだけ食欲が湧くような気がした。吐き気に襲われると、彼女が背中をさすった。吐き気が収まりはしないが、掌の温度が伝わってくると安堵感がある。

 ある雨の日、河村医師は知らない女性を伴って現れた。

「元気?」

「ええ、症状を除けば元気です」

 私は答えた。症状、とはあちこちを切除した影響や薬の副作用のことで、ここ最近は専ら吐き気と不眠だ。良くなることがないならどうにか付き合っていかねばならないということを最近覚えた。

「なんだかどんどん達観していきますね……紹介します、こちらリディヤ」

「……ハロー……」

 リディヤは小さな声でおずおずと言った。声からすると二十代か。河村医師よりは大分若い印象を受ける。

「ハロー、リディヤ」

 私は答えた。リディヤはすらりとした腕と脚の持ち主で、白いワンピースを着ていた。眼が視えたら、白い服は浅黒い肌によく映えるだろうな、と思った。

「彼女はインドネシアから来たの。二十一歳。血液検査済み。子宮も健康。あなたの子どもを産んでくれます」

 河村医師はてきぱきと説明した。

「あ、あと、英語とインドネシア語しか話せませんが、英語で大丈夫ですね?」

「ええと、はい」

 咄嗟にそう答えたが、展開についていけない。

「すみません先生、もう少し……説明を。僕は彼女と子どもをつくるんですか?」

「リディヤは代理母です。卵子提供者は別にいます。あなたの子どもをつくったとして、申し訳ないけれどあなたは子育てできませんよね」

 私は沈黙した。

「ですからできれば子育て可能な卵子提供者が理想なわけです。実の母子ですから、乳児院に入れるよりうまくいく確率が高いです」

 そうだ、子どもはつくっておしまいではないのだ。分かってはいたが、具体的に考えていなかった。まとまった金さえあればなんとかなると思い、親のない子がどういう育ち方をするのかまで想像できなかった。そんなことよりとにかく子どもが欲しかった。それ以外に進化する道はないように思えたのだ。

「卵子提供者とあなたが性交すれば話は早いのですが」

「いや、そんなこと……こんな身体ですし」

 私はつい眼を泳がせた。

「障害は関係ありません。卵子提供者がご夫婦である場合が多いのです」

「夫婦?」

「統計的に、片親より夫婦の方が経済的に安定していますから。なら夫婦で子づくりすればいいのに、というわけにいかないご夫婦もいます。不妊、セックスレス、LGBTなどなど」

 耳が痛かった。思わぬところで過去を攻撃されてしまった。

「……では、この方の子どもではないわけですね。その、遺伝子とか、卵子という意味で」

「そうです。リディヤは子どもを育てられません。純粋にお金のためにこの仕事をするのです。代理出産は海外では珍しいことではありません。逆に妊娠出産はできないけれど子どもを育てたいという人もいる。人には色々事情があるんですよ」

「そんな……わかりますけど、そんな細切れにしてしまっていいんでしょうか……」

「細切れ?」

「なんというか、れ、恋愛から、人を好きになってですね、恋愛から、結婚して、家族を作って、という、本来ひとつながりの流れを切り貼りするようなことは、不自然ではないですか」

「不自然。そうですね、確かに。でも自然な方法では既に人は増えないのだから、人類はもう自然には繁殖できない段階に来ているのかも」

 河村医師はいつになく早口で、饒舌だ。

「そして言ってしまえば、あなただって遺伝子を残したいだけ」

 確かにそうだ。こんな姿になっても生きて、育てられもしないのに繁殖しようとしている私が、正に不自然な存在なのだ。

「とにかく今日と明日、リディヤに来てもらいますので、彼女の助けを得て射精してください。こちらで人工授精して彼女の胎内に入れ、妊娠・出産させます。ナースステーションには話を通してありますし、何かあればリディヤがナースコールしますのでご心配なく」

「……何もないことを祈ります……」

 あまりにもプライベートすぎる話題をあまりにもあっけらかんと事務的に話されて、私はすっかりその気が失せてしまった。

 ところがリディヤのほうがうわ手だったのか、結局私は二日間に渡ってしっかり射精させられてしまったのだ。

 河村医師が去ると、リディヤは病室に鍵をかけ、仕事に取り掛かった。ベッドに私を仰向けに横たえると、服を脱ぎたいか、着ていたいか、聞いてきた。もうやけくそになって、どっちでもいいですよと答える。リディヤは私の服を脱がせて、

「私も脱ぎましょうか?」

と聞いてきたので、じゃあ脱いでくださいと言った。

 何年ぶりだろうか。さらさらと肌と肌が触れ合う感覚が気持ちいい。

 裸は視えないが肌の色はわかる。その褐色も、さらりとした肌の質も、上向きに丸く張り詰めた乳房も、細い腰も、跳ね返るような弾力も、すべてが河村医師とは違っていた。彼女の肌は白く、表面はしっとりと潤い、どこに触れても柔らかかった。私は眼を閉じた。

 身体中を丁寧に愛撫されるのは心地よかった。眠気が襲ってくる直前、性器を包み込まれて感覚が覚醒する。

 私は河村医師が手配した女に侵されながら、脳内で河村医師を犯した。

 

 翌年、心臓の移植手術を受けた。

 心臓に負担のかかることは避けるように言われた。

 私の計画は間に合ったのだ。さて、首尾よく進んでいるのだろうか。

 


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