第四章 可逆的進化論

第四章 可逆的進化論

 手脚を失って二年が過ぎた。

 もう私から奪うものなど残っていないだろうと思っていたが、その年の秋に胃、年末に大腸に、異常が見つかった。年明け早々、病巣を切除した。

 胃を切除し、食道と小腸を繋ぎ、大腸は人工肛門に繋ぐ。

 胃には胃酸で食べ物を分解する機能の他に、食べたものを溜めておく機能がある。これがなくなると一度にたくさん食べることができなくなる。胃のかわりに口でよく噛んでおかないと、吐き気やめまいに襲われることになる。揚げ物、塊の肉、スパイスたっぷりのカレー。旨い料理はどれも禁じられた。食べる楽しみは消え失せ、生きるための栄養素を吐き気と共に飲み下す。そして、脇腹にぽっかりと開いた穴から機械的に廃棄する。

 あまりに四六時中吐き気に襲われるので、酷いときには食べ物を想像するだけで胃が  正確には胃のあった辺りが、むかむかした。しかし、別れた妻の料理を思い出すときだけは、吐き気が起きなかった。

 夜になると、静寂に包まれた病室で心臓の音が変わらず呟いているのを確認する。

 

 心臓はまだ動いている。

 心臓は動き続けている。

 

 銀色の義手と車椅子が、私が寝たきりになるのを辛うじて防いでいた。

 しかし私はやがて、ベッドから出ることをやめた。

 動くために、食べるために、働くために、自分の身体を使うことをやめた。すべて看護師が世話をしてくれた。目的を失った筋肉は急速に衰えていった。

「あなたにはもう少し運動が必要です」

 たまりかねた義手が意見してきた。

「どうやって?この通り手もない足もないのに、ジョギングでもしろと言うの?」

 義手は呆れたようにため息をついた。(実際に息の出る機能はなかったので、そういう音を出しただけだが)

「筋肉が衰えると、私を動かすにも支障が出ますよ。それに」

 義手は少し間を置いて言った。

「美しくありません」

 確かに、私の全身の肌は白くゆるみ、弾力を失ってふわふわとした細かい皺が寄っていた。まるで老人のようだった。

 死んだほうがましだ、とは思わなかったが、自分はいつ死ぬのだろう、と思うことはあった。それは不安や恐怖ではなく、単なる興味だった。本当に恐怖を感じていないのか、単に目を背けて向き合わないようにしているのか、当事者である私自身には判断しようもない。もしかしたら私は既に緩慢な死の最中にいるのかもしれない。あまりにそれが緩慢すぎて、恐ろしさを感じるタイミングを逸してしまったのかもしれない。

「しかし、誰か僕の死を願うだろうか?」

 禅問答のような問いに、私の忠実な義手は辛抱強く付き合ってくれる。

「誰もそんなこと願いやしませんよ。河村医師も看護師もリハビリセンターのスタッフも、あなたの友人もご家族も、私だって、あなたが生きることを願っていますよ」

「そうだよな。僕自身だって、死を願ってはいない……」

 だからこの日々があるのだ。苦しみながら食べるのだ。

 胃がないせいか、或いはほとんど動かないせいか、食欲はまったく湧いてこない。便意もない。

 私の身体は、栄養素が通過する管そのものだった。

 何の意味があるのか。

 この生に。

 何の意味があるのか。

「そもそも、生きる意味を考えることに意味があるのか、私には理解できませんが」

「そうだね。確かに考えれば考えるほど、生きる意味など元からない」

 死ぬ意味もない。だから生きていられるのだ。

 人知れずひっそりと動きを止め、何も生み出さず、生きるために生きている。

 そんな生き物がいたな、とふと思った。カンブリア紀。脊索動物。バージェス頁岩。断片的な記憶がぽろりぽろりとこぼれ出てくる。

 暗闇の中で、もう何ヶ月も触れていなかったタブレットPCが青白く起動する。私の呟きを聞いて、義手がアクセスしたのだ。

 視えない目の代わりに、義手が検索結果を読み上げる。

「カンブリア紀。古生代5億4千万年前。代表的生物はアノマロカリス、オパビニア、ハルキゲニア、ピカイア、オットイア……」

 それだ。

「ピカイア、原始的な脊索動物」

「脊索……?」

「ホヤとか、ナメクジウオ。脊椎動物の前段階」

「ナメクジ……」

 幼い頃に梅雨に発生したナメクジを踏んだ思い出が蘇って、思わず顔をしかめた。

「ナメクジではなく、ナメクジウオです。脊索動物の頭部と胴体が分化して脊椎ができ、魚類、両生類、爬虫類  恐竜へと進化していきます。やがて恐竜の絶滅を待って、哺乳類が大型化、今日の繁栄に繋がります」

「つまり僕は今、古代生物に進化しつつあるのだな」

「……お言葉ですが、退化の誤りでは?」

「いや、僕の腕も脚も、生きるために切除したのだ。生きるための退化とは即ち進化と同義ではないのか」

「可逆的進化ですね」

「……そうだ。環境への順応だ。僕は人類が新しい世界に順応するための、進化のテストケースだ」

 死後の世界は無だ。何の宗教にも帰依していない私はずっとそう信じてきた。

 だから命あるものはすべて、死後の世界ではなく、生きるために活動している。私は手脚と内臓を切り取って生きている。この生を打ち切りたくはない。もし人生を一枚の絵に描くなら、幸福も苦しみもすべてが私の人生だ。そしてこの星の進化の系統樹の片隅に、確かに明滅している命だ。

 太古より連綿と続く生命の一端に存在する個体として進化し続ける。

 どれだけ身体を奪われても、すべてを失っても。

 この脳が思考を止め、心臓が動きを止めるまで。

 

 心臓はまだ動いている。

 心臓は動き続けている。

 


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