第二章 左腕

第二章 左腕

 二週間に一度の通院の日の前日まで、左手の痛みについて医師にはなすかどうかずっと悩んでいた。当日までに痛みが消えていれば気のせいだということにするつもりだったが、痛みが引く気配は全くなかった。

 医師の判断は早かった。

 担当医は私より幾分若い男性で、感情が表に出ないタイプだ。私が診断を冷静に受け止め、淡々と治療を進めることができたのも、この医師の無表情・無感動な対応の所為かもしれない。

 彼の説明は頗る事務的だった。

 両腕を切除してしまうと日常生活が送れなくなる。介護できる家族なりがいなければ、義手が必要になるだろう。切除後、リハビリ専門医とケアマネージャーを交えて相談して決めることになる。概ねそういった趣旨のことを聞かされ、すぐに検査入院になった。

 健気にも私の名前を書けるようになっていた左腕は、検査結果が出て一週間の後、無情にも私の身体から切り落とされてしまった。

 私は何も持てなくなった。

 術後は身の回りのことを介助するスタッフがついて、着替えから食事、移動など一日のほとんどすべての行動を助けられて過ごした。びっくりするほど何もできないので、いちいち他人の世話になる自分を受け容れるのにしばらくかかったが、やがて慣れてきた。

 食事が出るようになって五日目の朝のことだった。女性の看護師が盆に載った昼食を運んできた。いつもは介助してくれるスタッフが食事を運び、そのまま食事を手伝うのだが、看護師は盆を置いて出ていってしまった。それきり待てど暮せど誰もやってこない。ふと思いついて日付を確かめる。八月二十五日土曜日。休日でスタッフの編成が変わり、引き継がれていないのかもしれない。

(一人で食べられるだろうか)

 ふとそんな考えが浮かんだ。四人部屋だが、カーテンはぴっちり閉まっている。メニューは炒飯と玉子のスープ、焼売、クコの実の乗ったデザートは杏仁豆腐だろうか。別段好物というわけでもなく、腹が減って仕方がない、というわけでもなかったが、目の前に食べ物があるとどうにも食べたくなる。病院では他に娯楽もないので尚更だ。

 こうなってみると、慣れない左手で食べることなどどうということはなかった。両手がない今、果たしてどうやって食べようか、考えている間にも眼の前の食事はみるみる冷めていく。スプーンは付いていたが、使いようがないので早々に諦める。スープの椀に口をつけてゆっくりと啜ってみる。半分くらいは飲めた。炒飯に顔を突っ込むのは最後の手段として、焼売の皿に覆いかぶさって口唇でひとつつまみ上げ、そのまま上を向いてむしゃむしゃと食べた。これはなかなかうまくいった。ふたつ、みっつと同じ要領で食べる。

   犬喰いじゃ。

 ぱん、と手の甲を叩かれた記憶が蘇る。あれは幾つの頃だったか。両親が働いていて、夕食は祖母に食べさせられていた時期があった。幼児の身長では食卓は高すぎて、顎のすぐ前に食器が並んでいた。肩ほどの場所にある食器を持ち上げるには両肘を大きく張り出さなければならない。自然と、食器を持ち上げずに卓に置いたまま食べてしまう。それを祖母は嫌った。和食器は手で持って食べるのがマナーだと食事の度にいちいち指摘された。

   左手を使わないと、いつか手を失くすぞ。

 そういえばそんな脅し文句もあったな。ふっと自嘲するような笑いがこみ上げてくる。躾には厳しかったが、孫には甘いところもあった。唐揚げが好物だと言えばよく作ってくれたし、両親に代わってディズニーランドに連れて行ってくれたこともあった。当時住んでいた地方都市から東京まで新幹線で三時間ほど、幼い子連れでは長旅だったに違いない。

 その祖母は疾うに亡く、そして私の両腕も既に亡い。祖母は果たして可愛い孫の両腕が本当に無くなると想像しただろうか。

 祖母の思い出を掘り起こしながら炒飯に取り掛かる。食べ始めると食欲が湧いてくるもので、まず深皿に丸く盛られた炒飯の山の頂上を食べ、口が飯に届かなくなると、空になった焼売の皿に深皿をひっくり返して飯をあけ、皿を舐めるように残りを食べた。本当に犬のようだな、と思った。昔飼っていた仔犬がこんなふうにおかかごはんを食べていた。その可愛らしい姿を思い出すと、不思議と抵抗が薄れた。

 最後に、椀に半分ほど残ったスープを眺めて、

(足で椀を傾けることが、できるだろうか)

と考えてみる。同じように両腕切断した人が、足を器用に使って食事をしたり絵を描いたりする姿は見たことがあった。しかしそれで失敗したら、服もシーツも替えなければならない。忙しい看護師たちの手を煩わせるのは本意ではないし、更に食事の介助がなかったから自分で食べようとしたことを説明して「余計なことはしないでくださいね」とやんわり叱られたりするのは、ちょっと嫌だ。

 結局、足を使って食べられるか試すのは今日のところは見送ることにした。

 祖母の言は別としても、食卓に覆いかぶさるのも、食卓に足を上げるのも、物心つく頃から当たり前に躾けられてきたことだった。それを覆して、多くの人間と違う姿勢をとらなければ食べることすらできないという状況は、ちょっとやそっとでは受け容れ難い。

(やはり義手は必要か……)

 それでも離れて暮らす家族や親戚に介護してもらうことは考えなかった。

 この頃から私は、できるだけ自分でできることは自分でやってみようと考えていた。他人の手を借りずに自分の身体が何をどこまでできるのか知りたかった。

 入院していた大学病院から紹介されたリハビリテーション専門の施設に移り、リハビリが始まった。義手をつけるとしても、様々な種類があり、適性があり、訓練が必要だった。それまで手が行ってきたすべての動作は、主に口か、或いは足で行わなければならなかった。

 もし私が画家であったら悲観して自殺するか、発狂していたかもしれない。演奏家でも同じだろう。細かい手作業を伴う趣味や職業でなくて良かったと思う。

 恋人もいなくて良かった。愛し合うどころか、苦労をかけるばかりだ。将来には不安しかない。抱きしめることもできない。

 右腕と左腕、失った質量は正しく同等なのに、片腕を失うことは両腕を失うことの半分の価値ではないことを知った。

 妻がいなくて良かった。子どもがいなくて良かった。

 両腕がなくては、抱きしめることもできない。

 

 妻は子どもがほしかったようだ。

 最初は気軽に、次に遠慮がちに、終いには露骨に、要求してきた。

 私は最初は笑って聞き流し、次は聞こえないふりをし、最後は逃げた。走って逃げた。置き去りにしたベッドで妻は泣いた。泣きわめきながら枕元にあった本やらカップやら投げつけてきた。錯乱しているようでいて、割れそうなグラスや壊れそうな時計は避けて投げているあたりは、少しは冷静なのか。元々、彼女の怒り方には演技がかったところがあった。

 それから一緒の部屋で寝ることはなかった。

 その夜のことは、いい口実になった。おそらく妻にとっても。

 私はもう随分前から妻を抱けなかった。何故と聞かれても答えられない。理由なんてあるようで無い。ないようで在る。疲れているから、明日早いから、裸を見慣れたから、欲情しないから、子どもができたらマンションが手狭になるし、今すぐ欲しいわけじゃないから、酔っているから、眠いから、手をつないでいるだけで僕は満足だから、セックスなんてしなくても、毎日一緒にいられるだけで幸せだから。言葉にするとどれも瑣末で、やはりそこに至る重大な何かなどないのだ。

 妻は妻で、私が性交渉を拒否したという事実を得て、子どもができないのを大っぴらに私のせいにするようになった。のちには離婚の正当な理由にもなった。

「奥さん、浮気してただろう」

 ある日、居酒屋で友人と飲んでいて、妻と別れた話をしたら、そう言われた。

「だってほら、タイミング的に」

「……かもな」

「家出したのはさ、男のところに行ったんだろう。すぐに子どもができたとして、二ヶ月だろ」

「わかんないなー。いきなりやっちゃうところがあったから」

「いきなりやっちゃうって」

「いや、だから、思い切ったことをさ、すぐに」

 友人はにやにやしながら、ふうん、とだけ言ってジョッキのハイボールを飲んだ。

「で、おまえは?」

「別に……もうしょうがないだろ、別れちまったんだから。子ども堕ろせとは言えないし」

「そうじゃなくて。浮気だよ。おまえはしてたの?」

 してないよ。してるわけないだろ。そう言うと、友人は興ざめしたように、次の話題に移っていった。まだ自分が病気になるなんて想像もしていない頃のことだった。

 救急の患者がいないので、大学病院に比べてリハビリセンターの夜は静かだ。病室は二人部屋だが、患者数が少ないのか、障害者の心理への配慮か、ほとんどが一人一部屋で入っている。

 その気兼ねなさからか、我知らず声に出た。

「……こんなことになるなら」

 こんなことになるなら、子どもを作っておけばよかった。妻の望み通り。

 苦労しかかけなくても、抱きしめることすらできなくても、働けもしない、惨めな姿を晒しても。

 妻と子がそこにいてくれたら、それだけで。

 毎日一緒にいるだけで、幸せだったのだ。

 両腕を喪って、私はようやく、妻を抱きたいと思った。

 

 矛盾した考えが同時に沸き起こり、どちらが本音なのかわからなくなる。家族などいなくて良かったといいながら、気付けば空想の家族を丹念に創り上げている。

 


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