鍵は閉めてきましたか〜第六話

鍵は閉めてきましたか〜第六話

 朝。雨が上がった。電線から濡れたアスファルトめがけて落下する雫が、朝陽をきらりと反射する。
 慈はふらりとコンビニに入った。
(――何を買いに来たんだっけ)
 どうにも記憶が跡切れ跡切れだ。からだがからっぽになったせいかもしれない。
「そうだ、ミアちゃんに、ゴハン」
 買い物かごに、水とパンと牛乳、おにぎり、バナナ、生理用品、そしてお菓子をいくつか入れる。財布を持っていないことに気付いて、レジで決済機に携帯をかざして代金を払う。
 レシートを受け取りながら、財布はアテンの部屋に置いてきてしまったのだと思い出す。どうせ大した金額は入っていない。あとで取りに行けばいいや、と思って店を出る。
 もう目の前が慈の家だった。
 二階建ての古いアパートの外階段を登って、部屋のドアの前に立つ。そしてドアノブに手を掛けて、ふと記憶を辿る。
 ――あれ、あたし、いつから帰ってないんだっけ。
 鍵は、開いていた。
 キイ、と小さな音を立ててドアが開く。
 それは疵のついた歯車の音。
 徐々に歪んで、たわんで。
 ――やがて全体が瓦解する。
 名前を呼ぶのが恐ろしい。返事がなかったらもっと恐ろしい。慈は一歩、中に入った。中はとても静かだ。何の気配もしない。からっぽだったはずのからだが真っ黒い予感でいっぱいになるのを感じた。
 靴を三足も置いたらいっぱいになる小さな三和土。郵便受けから溢れた公共料金の請求書とチラシ。ドアと同じ幅の、短い廊下。左側には簡素なキッチン。安っぽいビニルクロス張りの床。火曜日に捨て忘れた生ゴミ。開け放たれた引き戸の向こうに、朝陽がいっぱいに差し込んだ八畳間。
(カーテン、開けて出たんだったかしら)
 逆光で室内の様子がよく見えない。
 心臓が苦しい。怖い。ずっとずっと胃のあたりを塞いでいた黒い不安の正体を、見るのが怖い。濡れた段ボールの中の。怖い怖い怖い。
 慈は必死で息を吸った。黒い塊がぞわぞわとからだに満ちて、全身の毛穴から吹き出しそうだ。喘ぐように呼吸しながら、部屋に踏み込んだ。
 床に散らばった、色とりどりのプラスチックのブロック。大小さまざまな大きさのぬいぐるみ。ピンク色に光る剣。ハート型のプラスチックの宝石がついたコンパクトミラー。
 小さなちゃぶ台の上には、山盛りのお菓子の包み紙。ふたがあき、生のまま齧られたカップラーメン。もやしの袋。腐った牛乳の匂いのするコップ。
 部屋の半分にはピンク色の薄い布団が敷きっぱなしだ。その上には薄汚れた衣類が積み上がっている。ゴミ箱からは汚れたおむつが溢れて、酷い匂いを放っていた。
 部屋には、誰もいなかった。
 ――やっぱり、逃げたんだ――。
 蛍光灯の紐には、ペットボトルでできたお手製の風鈴がぶら下がっている。以前通わせていた保育園で作ったものだ。それが慈の額に当たり、乾いた音を立てて揺れた。
 まるでばらばらになった歯車の残骸が、からからと空回りする音のようだった。
 慈はほとんど無意識のまま、流し台の下からゴミ袋を引っ張り出しておむつを詰める。シンクの腐った生ゴミも入れる。
(今日は、燃えるゴミの日……)
 朦朧とした頭で慈は考えた。パンパンに膨らんだゴミ袋を持って、ふらふらと外に出て階段を降りる。
 アパートの前に停まっていた車から、男が二人降りてきた。
「遊佐慈さんですね。一緒に来てください。通報がありまして、望愛(みあ)さん今、大学病院にいますんで」
 男はそう言うと、慈の腕を掴んで、車に乗るよう促した。

  慈しみ深き 友なるイェスは
  罪とが憂いを とり去りたもう
  こころの嘆きを 包まず述べて
  などかは下ろさぬ 負える重荷を

  慈しみ深き 友なるイェスは
  われらの弱きを 知りて憐れむ
  悩みかなしみに 沈めるときも
  祈りにこたえて 慰めたもう

  慈しみ深き 友なるイェスは
  かわらぬ愛もて 導きたもう
  世の友われらを 棄て去るときも
  祈りにこたえて 労りたまわん

 どこからか賛美歌が聴こえてくる。
 外から鍵を掛けられた狭い部屋の小さな窓からは、柔らかい光が差し込んでいる。


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