鍵は閉めてきましたか〜第四話

鍵は閉めてきましたか〜第四話

 一人でいると狂いだしてしまいそうな気がして、慈はアテンの部屋を飛び出した。
 ――帰ってミアちゃんにゴハンをあげないと。
 だってもう母はいないのだ。
 ――でもきっと、一日くらい平気。そう、マスターも言ってたじゃない……。
 外はまた雨が降っていた。
 胸につかえているこの不安はなんなんだろう。憂鬱が雨水を吸ってどんどん重くなって、まるでそう、校庭の隅にあった黄色いでろーんとした四角いスポンジ。校庭の水たまりの水をずっしりと吸い込んで、どす黒く汚れたあのスポンジ。あれを飲み込んだみたいな気分だ。
 泥水が体内を逆流して口から溢れ出しそうになって、逃げるようにバーに駆け込んだ。
「いらっしゃい、慈さん」
「それ、ロックで」
 赤いキャップのボトルを指差して言った。喉元までせり上がってきた泥水を、ウィスキーで押し流す。カッと熱いアルコールが消化管を灼きながら降りていく。
「ママは正しいのよ。だってお兄ちゃんも彩音も、いい大学に行って、いい会社に入って、ちゃんとやってるんだから。あたしだけ、何やってもダメなのよ。勉強は嫌いだし、スポーツもできないし、音楽も絵も何が楽しいのか全然わかんない。どの教科も、百点なんて取ったことない。料理も掃除も嫌い。挙句に――結婚も、失敗して……生きてる価値なんてないんじゃないかしら、って、きっとみんな思ってるし、毎日、毎晩、あたしだって思ってるよ」
 慈は薄汚れたスポンジから茶色く濁った泥水を絞り出すように、だらだらと吐露した。酔っぱらいがろくでもない話をしているな、と自覚していた。聞き手にとっては面白くもなんともない、ただの劣等感の垂れ流しだ。
 それをぜんぶ聞いたマスターは、グラスを拭きながら、いつもの優しい笑顔を浮かべた。
「ねぇ慈さん――努力って、できる人?」
 マスターの手元では、真っ白い布がくるくると動き、透明なグラスを次々に磨き上げていく。
「みんなさぁ、がんばればできるって信じすぎなんだよなぁ――だから、できない奴はがんばってない、努力しないからできないんだ、って言われるでしょう?そりゃあさ、努力したらした分だけできる奴もいるんだけど――」
 薄暗い店内には静かなジャズが流れている。マスターが話すと、ジャズがよく聴こえてくる。マスターの声と言葉は、正しくこの空間をかたちづくる空気の一部だった。
「そういう人は、わかんないんですよねェ。そもそも、努力ができない人間もいるってこと。でも、できないものは仕方ないんですよ。だって、できないんだもの。有名じゃなくても大学行った慈さんは、慈さんのベストを尽くしてるんだから、それで百点なんじゃないかなあ。僕なんて大学行ってないし。まあ、行こうともしなかったですけど。でも僕はお店出せたから百点かな。それに、店が潰れてもいいんです。僕のお酒を飲んでくれるお客さんが一人でもいたら、それで百点」
 カウンターには磨かれたグラスたちが並び、きらきらと光を放っている。
「……こんな客でも?」
「もちろんですよ。僕、慈さんがそこに座ってると、なんかほっとするんですよね」
 マスターが慈を見てにっこり笑ったので、慈は嬉しくなってしまった。
「じゃああたし、マスターが屋台の親父になっても飲みに行くよ」
「お待ちしてます」
 慈も、ふふふ、と笑う。過去と未来の思い出を追って、寂しいようなわくわくするような浮遊感に包まれる。
 グラスを傾けると、ふと祖母の顔が浮かんだ。
「おばあちゃんに、会いたいなあ……」
 祖母は慈に優しかった。もちろん祖母は孫の誰にも優しかったが、兄も妹も塾だ習い事だといつも自分のことで忙しかった。特に熱中する対象もなく、家で子供向けの本を読んではぼーっとしていることが多かった慈が、一番祖母と過ごす時間が長かったのだ。だから尚更そう感じるのかも知れない。
 家で居場所がないと、慈はよく祖母の家に遊びに行った。祖母はいつでも歓迎してくれた。
「あら、よく来たねぇ」
 そう言って、蜜柑だの煎餅だのチョコレートだのを出してくる。慈は会いに行くだけで良かった。それだけで祖母は目を細めて喜んだ。
「慈ちゃんはいい子だねぇ」
 慈が何ひとつうまくできなくても、祖母はいつもそう言って笑いかけてくれた。
「こぉんないい子をくださって、神さまに感謝しないとねぇ」
 クリスチャンの祖母が事あるごとに口にする「神様に感謝」も、母の好まぬところだった。兄や妹は「神さまなんて、いるわけないじゃん」とあからさまにばかにしていた。慈はそのたびにうつむいて黙った。面と向かって祖母の肩を持つ勇気のない自分が、ただただ後ろめたかった。
 慈の結婚式には、祖母の好きな賛美歌も流れた。式進行の打ち合わせ時、慈が何曲かあった候補の中にそれを見つけ、演奏してもらったのだ。

  慈しみ深き 友なるイェスは
  罪とが憂いを とり去りたもう
  こころの嘆きを 包まず述べて
  などかは下ろさぬ 負える重荷を

 祖母はその二年後、他界した。


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