鍵は閉めてきましたか〜第三話

鍵は閉めてきましたか〜第三話

 明け方眼を覚ますと、アテンが横に寝ていた。温かくて、さらりと硬い肌が心地よくて、慈はアテンにすり寄った。
「メグミ、猫みたいね」
 アテンは眼を閉じたままそう言って、慈の身体に両腕を回した。
 待ち望んだ腕に包まれて、慈は眼を閉じる。胃の入り口にはまだあの黒い塊が小さな重みを伴って沈んでいる気がする。でも、ひとりよりずっといい。下腹の熱が黒い不安を溶かしていく気さえする。慈は大きく息を吸い込んだ。それを、アテンは違う意味に捉えたようだった。
 ジャングルの木漏れ日を見上げている浅い夢を見て、再び目覚めると、太陽はもう随分高かった。雨は上がっている。
「今日はどうするの?」
「んー……一回、帰ろうかなぁ……ミアちゃんにゴハンあげないと」
 そうだ。鍵も掛かっていないかもしれない。ミアちゃんが外に出てしまうかも。
「猫?かわいい名前。メス?」
「そう――女の子」
 アテンはクスクスと笑った。その声も、慈の髪を梳く浅黒い指先も、すべてが甘ったるい。
「猫が猫を飼ってるの?」
「あたし、猫じゃないわよ」
 慈もクスクス笑う。全部忘れて、毎日この男にペットのように甘やかされていたい。貧しい南の島で育った彼は、慈の髪や爪に艶がないことなど気にしないだろう。
「こんど僕にも会わせてよ」
 そう言うアテンは、慈の家に来たことなどない。慈もわざわざ呼んだりしない。
 時間を見ようと、床に落ちた携帯に手を伸ばす。午後一時半。着信五件。すべて母からだった。
「誰から?」
「んー……ママ」
「掛け直さないの」
「あとで掛ける」
 裸の男の前で母親に電話ができる娘なんているんだろうか、と思いながら、慈は携帯を床に戻した。

 慈、という名は、祖母がつけたという。カトリック教徒だった祖母が、大好きな賛美歌のひと節からとったと聞いた。
 祖母と母は性格が合わなかった。特段いがみ合っているわけでも、これといったわだかまりがあるわけでもないようだったが、とにかく何かにつけ考え方が違っていた。祖母は慈の家の近くに住んでいて、祖父が亡くなってからは一人暮らしをしていたので、よく夕食など食べに来ていた。おっとりした祖母と合理的な母は、言葉を交わすごとに面白いほどにすれ違っていた。母が、歯の弱った祖母を気遣って柔らかく炊いた煮物に、祖母は何の気無しに「このお芋は煮すぎね。崩れかけてるわ」と宣い、祖母の意見を聞いてから決めようとしていた歳暮を「まあ、まだ送ってなかったの?」と目を見開く。そのたび母は、やる事なす事批判されていると感じるらしい。恐らく祖母の方では単なる感想や質問を述べただけのつもりなのだ。それを母はいつまでも覚えていて、事あるごとに「あの時おばあちゃんがこう言ったから」とあげつらった。祖母の方ではもうすっかり忘れていることも少なくなく、それがまた母を苛立たせる。いつも機嫌の悪い母に、祖母もさすがに辟易とする。
 そんな祖母が、なぜか慈にだけ名をつけた。慈には兄が一人、妹が一人いたが、どちらも両親が相談の上で名付けている。そのせいではないだろうが、何故か慈だけが、兄妹の中でいつも少しだけ出遅れていた。まず言葉を覚えるのが一番遅かったらしい。中学受験も、慈だけが落ちた。
 母はその合理性を子育てにも発揮した。育児書を読み漁り、正しいと思われるメソッドを確立し、子どもたちに平等に適用した。三人の子どもを同じように愛し、同じチャンスを与えた。だがそれは慈にとっては、常に小さな劣等感を植え付けられるだけだった。結果、兄妹たちはそれなりに名の通った大学を出て、名の通った会社に就職した。平凡な高校を出て就職予備校のような大学に進学した慈は、三分の一の確率で現れた不良品だった。しかしそれも、一応大学まで出たのだから、ごく小さな瑕疵に過ぎない。母の合理性の勝利である。
 そんなわけで、慈は家の中で一番祖母に懐いていた。いきおい、母に対して距離を取るようになった。いまだに母からの電話には緊張するし、メールですら苦手でつい返信が遅れてしまう。
 慈とアテンが小さな部屋の中で抱き合ったりテレビを見たりカップラーメンを食べたりしているうちに、あっという間に夕方になり、夜になった。自分の家に帰ろう帰ろうと思いながら、結局アテンが家にいる間は慈もずるずると留まってしまう。
 夜の七時過ぎ、アテンはまた仕事に出かけていった。間もなく掛かってきた十数度目の母からの着信に、慈はようやく出た。
「慈、ちょっと、どうして電話に出ないの?」
 母の剣幕に、慈は早くもうんざりする。顔が見られていなくて良かった、と思う。
「ちょっと人と会ってたり……電車に乗ってたりしてて」
「夜も掛けたわよ」
 慈は携帯のマイクにかからないようにため息を吐いた。電話に出たくないから出なかっただけで、なぜこんなに責められるのだろう。でも言い返しても説教が長くなるだけだ。奥歯を軽く食い縛って苛立ちを飲み込む。
「……寝てたのよ。どうしたの?」
「どうしたの、じゃないでしょう。あなた私に言うことがあるでしょ」
 慈は唇を噛んだ。どうしてこの人はこういう言い方をするのだろう。そして、一体どれがばれたのだろう。仕事を辞めたことだろうか。それとも誰にも言わず引っ越したことか。それとも、それとも。呼吸が浅く速くなる。母に言っていないことなどたくさんありすぎる。
「ええと……」
「和哉くんに電話したのよ。そしたらあなたたち別れたっていうじゃないの」
「……どうして、電話なんか……」
「あちらのご両親にお中元を贈るので、変わりないか聞いたのよ。あなた全然電話に出ないから」
「急ぎの用ならメールにしてって言ってるのに」
「急ぎだから電話してるんじゃないの。まったく、そっちからは全然掛けてきやしないじゃない。なんでそうあなたは……大事なことを何も話してくれないの?親をなんだと思ってるの」
 慈はもう早く電話を切りたかった。話しているのが苦痛で仕方がない。大事なことってなんだろう。母に何を話したところで事実は変わらないのに。
「とにかくあなた、一回帰ってきて説明しなさい。ね?別れたってどういうことなの。今どこに住んでるの?ミアちゃんはどうするの?書類は――」
 答えられない質問を矢継ぎ早に並べられると叫びだしたくなる。慈は携帯をベッドに放り出して耳を塞いだ。電話口からはまだ母の声がしている。
「聞いてるの?ちょっと――」
 慈は髪を掻きむしった。
 母は子育てに勝利した。三人の子供の内の二人を優秀に育て上げた。慈の出来が平均点を超えられなかったくらい、取るに足らない瑕疵だった。しかし、小さな疵のついた歯車が回り続けることで、長い年月の間に取り返しのつかない歪みを生じることも、あるのだ。
 慈は色々なことがうまくできなかった。勉強だけではない。片付けも苦手で、部屋を散らかしてはいつも叱られていた。気が回らないので、家の手伝いも後手後手になる。率先して母を手伝って機嫌を取る妹や、料理でも何でも自分でやってしまう兄との間で、いつも慈だけするべきことを見つけられずにおろおろしていた。「自分で世話をする」と頼み込んで飼ってもらった猫も、成猫になる頃には受験を理由に母に世話を押し付けた。受験勉強と猫の世話、どちらも気にかけてうまく回す能力は、慈にはなかった。


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