午後九時。
パブ〈ライオンとウサギ亭〉は喧騒で溢れかえっている。
「ジェーントルマーン!」
グロリアが人混みをかき分けてやってきた。後にはラーンスロット。ハルとジョシュアはビールのグラスを掲げて合図した。
「紹介するわ、こちらランスロさま」
「知っている」
ハルがさらりと応え、ジョシュアは笑った。
「ではのんびりせずと、救出に向かいますか」
ハルとジョシュアは、ジョシュアの家の前でヘイゼルを待つ。ジョシュアは試しに呼び鈴を鳴らしてみたが、やはりジャックは留守のようだった。
ヘイゼルは程なくして現れた。
「ミスター・エヴァンズ!」
「ヘイゼル!」
ジョシュアはうっかりこの無作法で無節操な男の肩を抱いて再会を喜びたい衝動に駆られた。(が、もちろん思いとどまった)。化け物に喰い殺されたショックが大きかったせいか、生き返ったと思うと、安堵と喜びが湧き上がってきてしまう。それがいかに軽薄でいけ好かないと毛嫌いしていた男だったとしても。
「逃げるぞ」
ハルが短く言う。
「え、どこへ?ここで殺人犯を待つんじゃないのか?」
「状況が変わった。ここにいると危険だ」
そこへ上空で見張りをしていたラーンスロットとグロリアが乗った天馬が舞い降りてくる。
「さあ、早く乗りたまえ」
「なんだ、あんたたちは誰だ」
ヘイゼルはラーンスロットの天馬に目を白黒させている。
「愚図愚図してるとあんたが死体になるってことよ!」
グロリアがなかば無理矢理ヘイゼルを天馬に乗せ、ハルとジョシュアは走ってその場を離れる。天馬に五人は乗れない。
「おい、ジョシュア」
「なんだ」
「私はこのまま走り続ける体力はないぞ」
「奇遇だな、僕もそう思っていたところだよ」
「だったら早いとこあのカラスを呼んでくれ」
「僕が呼んで、果たして来るかな?」
「やるだけでもやってみろ。じゃないと十時前に待ち合わせ場所に着くなんて到底無理だ」
「わかった。ロッーーッド!リリーーィ!」
「おい、ばか」
「なんだ、呼べと言っただろう」
「呼べとは言ったが、リージェントストリートのど真ん中で呼ぶやつがあるか」
「おお、来た来た」
空には相変わらず大鷲やら翼のある大蛇やら飛行船のようなものやらが往来していたが、その合間を縫って白い大鴉が二羽、猛スピードで飛来してくる。
「呼んでみるものだな。ありがとうハル」
ジョシュアは微笑んだ。
リージェントストリートの左右にそびえる壮麗な建築物が、美しい曲線を描いてピカデリーサーカスへと続いている。その大目抜き通りの雑踏が割れ、真っ白な大鴉が降り立つ。衆目を浴びながら二人はそそくさとカラスに騎乗した。
一行はテムズ川の下流域に降り立った。一帯はドッグランズと呼ばれ、植民地各国からの船が入出港していた。河岸には船の積荷を保管する倉庫が立ち並んでいる。
人目を避けて倉庫の陰に隠れる。
「早いとこ行こうよ。あいつに追いつかれる前に」
グロリアが意気込んで言った。
「来たらまた鼻面をたたっ斬ってやる」
とラーンスロット。
「きっちり六百年前でいいのか?」
「いいえ、きっちり666年前よ。きっちり666年後に来たから」
ハルの問いにグロリアが答える。
「行くって、どこへ?」
ヘイゼルはまだ状況が飲み込めていない。
「ハル、ここはどこなんだ?ロンドンか?俺たちはたった二日前に来たはずじゃなかったのか?間違えて百年後の未来にでも行っちまったのか?」
「説明は後だ。話せば長くなる」
ハルがヘイゼルの質問攻めを断ち切る。
「百年後の未来か……」
ジョシュアは考え込む。「過去を変えると歴史が変わる」と時間屋の主は言っていた。
「……地上に存在している生き物は、すべて進化の選択の末のひとつの結果に過ぎない。もし生物が過去のどこかで異なる選択をして、別の進化の歴史を辿ったとしたら……そして選択されなかった過去が 未来へと、時空のどこかに存在していくのだとしたら……この世界の不可思議な異形の者たちの説明がつくのだろうか」
「……あ、俺、ちょっと話についていけない……」
ヘイゼルが音を上げて額に手を当てた。
「パラレル宇宙論だな」
そう答えたのはハルだ。ヘイゼルはもはや理解することを諦めたようだ。しかし記者の性なのか、いつの間にか小さなメモ帳を出していてしっかりメモを取っている。
「平たく言うと可能性の数だけ並行して世界が存在するという説だ。進化の歴史で淘汰された側の動物たちがどこへ行ったか。ジョシュア、仮に君の言う通りだとしよう。我々のいた世界とは別に『もうひとつの世界』があって、そこでは死に絶えたはずの生物たちが進化を遂げている。それがこの世界なのではないかと、そう言いたいのだろう?」
「そうだ。だけどわからないんだ。あの、最初の死体はまさしくケルベロスにやられたのではないかと思えてならないんだ。しかしケルベロスはあちらには存在しない。こちらでケルベロスの餌食になった『誰か』が、何かのはずみで死体だけあちらに行ったのだろうか?僕らがこちらに来たように、どこかに扉があるのか?」
「だがヘイゼルはもう助け出したぞ」
「そうなんだ。だからこの後、別の誰かが死ぬんじゃないのか?そしてそれは誰だ?まだ謎は解けていない」
「ねぇ、あんたたち、いい加減にしてさっさと逃げないと、ケルベロスの奴が来ちゃうよ!」
グロリアが焦れて叫ぶ。ハルが腕時計を操作する。
「ジョシュア、この世界の謎を解かなければ、あの死体の謎も解けない。こんなことになって今更信じないだろうが、私はこれまで何度も時間旅行をしていてこんな世界に来てしまったことなど一度もない。今回もこんなことが起きるはずはなかったんだ。では何故起きたのか?それは君が探している死体の謎が、この世界につながっていたからだ。そしてこの世界はきっとこいつら……グロリアとラーンスロットが来た時代からつながっている。そこへ行って、一体どこから世界が分かれてしまったのか突き止めたい」
夜の倉庫街に、時間旅行の光の粒が現れる。
ロンドンの空はスモッグに覆われ、星も見えない。
「さあ、見に行こうではないか、その『もうひとつの世界』を」