欧州一の金融街、シティの小路の奥にある古いパブ〈ライオンとウサギ亭〉は、仕事帰りの客でごった返していた。橙色がかった照明は人ごみに遮られ、大きな影がゆらゆらと壁に映し出されている。
ジョシュアの前にはビールがなみなみと注がれたグラスが置いてある。
一瞬、自分がなぜここにいるのか混乱する。数日前の記憶と目の前の光景が一致しすぎて、長いリアルな夢から覚めた気分になっていた。殺人事件が起きて時間旅行をする、奇妙な夢……。夢の余韻に浸りながら、ぼんやりした頭でビールを一口飲んだ。
「きっかり丸二日前、事件のあった夜だ」
はっとして振り向くと、すぐ横にハルがいた。
「……夢じゃなかったのか」
「呆ほう けている場合か。さて、どうする?」
「 ヘイゼルは?」
「なんだって?」
周囲の喧騒で、すぐ隣にいるのに大声で話さないと互いの会話が聞き取れない。顔を寄せ合って叫ぶ。
「ヘイゼルはどこだ?」
「知らん。奴が二日前にいた場所にいるさ」
なるほどそういうことか、とジョシュアは理解した。根拠もなく、二日前の「時間迷宮の館」に降り立つものだと思っていたが、確かにそれでは二日前に存在していた自分との整合性が取れない。
ジョシュアは感慨深く店内を眺め回した。確かに二日前に訪れたパブだ。シティで取引がある日はよく立ち寄る、行き慣れた店の見慣れた風景が、時間旅行したのだと思うとなんとも新鮮に映る。
「本当に、一昨日のままだなぁ」
ジョシュアは感心して言った。
「おいおい、大丈夫か?状況がわかっているか?」
「大丈夫大丈夫。ちょっと浸らせてくれたまえよ」
ジョシュアは眼の前のビールを飲んだ。
「ビールだなぁ」
「当たり前だ」
「いいじゃないか。感動しているんだ」
「酔って殺人犯と渡り合えるのか」
「渡り合うつもりなんか無いよ。そんな腕っぷしが強く見えるか」
「見えんな」
「一昨日は十二時までは外出していたんだ。帰ったときにはまだ死体はなかった。だから十二時までに家に帰ればいいはずだろう?」
「どうだかな」
「どういう意味だ」
「今にわかるさ」
「気になるだろう。なんだ」
「 イスラエルの時間屋に行ったんだろう?そこの親父が言っていた話を覚えているか?」
「勿論だ。さっき話したじゃないか。過去は既に決まっている。そこへ行くということは」
「そう、既に決まっている過去を変えることになる。今、君が過去に来たことで、既に歴史は変わっている。つまり殺人の事実も変わる可能性がある」
「まさか。僕が来たことを殺人犯が嗅ぎつけて殺人をやめるのか?しかしそうしたら僕が明後日君の家に行く理由がなくなる」
「それがタイムパラドックスだ。過去を変えると辻褄が合わなくなる。君が私の家に来なければここにいる君も存在しないことになる」
「そしたら殺人はやっぱり起きるじゃないか」
「そんな単純なことじゃない。つまり、我々が来てしまったこの世界は、別の未来を歩むんだ。だが私達は元の世界に帰る。そのための砂時計だ」
「あら失礼、こんばんは」
その時、話している二人の間に小柄な女性が割り込んできた。
「こんばんは」
ジョシュアが応える。
「ジョシュア、相手にするな」
「お仕事仲間?楽しそうなお話ね」
女性は、むしろ少女と言っていいほど小さく、酒場の高い椅子にちょこんと乗っかってようやくテーブルに顔が届いている。
「君、まだ子どもでしょう?こんなところに来ていいの?」
「おいジョシュア、話すなと言っている」
「あたしグロリアよ。グロリアーナ(グロリアちゃん)って呼んで良くってよ。よろしく」
少女はにっこりと笑った。酒場に出入りする娼婦とは違い、凝った織りの上等な生地を幾枚も重ねたドレスを着ている。肌は透けるように白く、丸い頬はまだ幼さを残し、青い大きな瞳が長い睫毛で縁取られている。古風なボンネットをかぶり、まるでフランス製のビスクドールのようだ。
「ジェントルマン、お名前はなんておっしゃるの?」
「話すんじゃないぞ」
ハルがジョシュアに低く囁いた。
「わからないな。さっきの話だと、結局、過去は変えてもいいってことじゃないか。どうせなかったことになるなら」
「だから、そう単純じゃないと言っている」
「どういうことだ。ちゃんと説明してくれ」
「説明するのは難しい。できれば、できるだけ過去を変えない方が安全なんだ。変動率が高くなると予測ができないことが起きる可能性が 」
「もう遅いわ」
少女が意味ありげな笑みを浮かべて言った、その時だった。
酒場のドアを蹴破って、白馬が乗り込んできた。
いや、正しくは馬ではない。馬の背中には巨大な翼が生えていた。
「 ペガスス!」
「ほらね」
ハルが言う。
「ほらね、じゃないよ、なんだこれは。見世物か?」
「いや残念ながら本物のようだ」
周囲をよく観察すると、扉が蹴破られたことには多少驚いても、馬に翼が生えていることに驚いている人間は誰もいない。
「あんなのが……このロンドンに……」
「あなたね、あんなのロンドンどころか神話の中にしかいないよ。知らんのか?」
「知っている。しかしあれは」
「だから歴史が変わってしまったんだよ。ああもう、嫌な予感がしたんだ」