「何て?」
ジョシュアはポーリーンの髪を弄びながら聞き返した。
「時間迷宮の館(タイムメイズマンション)よ。今はそう呼ばれているの。もともとはドーセット公が持っていたお屋敷だったようだけれど、跡継ぎが途絶えてから長いこと誰も住んでいなかったのよね。それを最近買い取って住んでいる人がいるらしいのだけど」
「へえ」
「誰も主の姿を見たことがないんですって。庭は荒れたままだし、使用人が出入りしている様子も見かけないし、でも夜になると明かりがついているから誰かはいるみたいだ、って。わたしも友達から聞いた話だから詳しくはわからないけれど、降霊会でもやっているんじゃないかっていう噂よ」
ポーリーンは髪をいじるジョシュアの手に自分の手を重ね、ジョシュアと向き合うと、もう一方の手でジョシュアの黒い巻き毛を指に絡ませて言った。
「そろそろ行かないと」
二人を乗せた馬車はすっかり暗くなったロンドンの街に吸い込まれていく。しとしとと降る雨でガス灯には靄がかかり、街の中をゆるく蛇行して流れるテムズは闇そのものだ。
「ねぇポーリーン、僕はその館に行ってみたいと思っているんだが」
「なんでまた?降霊に興味があるの?」
「いや、僕が興味があるのはもっと別のことさ。大学時代にイスラエルに行った時のことだ。マーケットの奥に「時間屋」という看板を見つけてね。そこでは時間旅行を体験できるんだ。五分だけだけどね。未来に行ける。未来だけなんだ。だから『時間が巻き戻る』というのは体験したことがなくて」
「ちょっと待って。あなたまさかその店に入ったの?」
「もちろん。だって気になるじゃないか」
「未来に行ったって、なぜ判るの?何が起こるの?」
「何も。ただ、時計が進んでるんだ。自分で持っていた時計は進んでいなくて、店の時計だけね。五分だけ」
「それだけ?」
「それだけ。それだけにしては結構いい金額を取られたけどね」
「時計が 故障したとか 手品とか……」
「店のはともかく、僕は時計と一緒に『これ』でも測ったからね。狂いようがない」
そう言うとジョシュアはポケットから紅茶用の砂時計を出して見せた。
「それに店の外に出ても、どこへ行っても、僕の時計は五分遅れたままだ。ほら」
丁度ビッグ・ベンが六時の鐘を鳴らしていた。ジョシュアの銀色の懐中時計はきっちり五分だけ遅れていた。
「時間旅行の記念に、時間を戻していないんだよ」
馬車はトラファルガー広場を過ぎてテムズ川沿いの道に出た。
突然馬が鳴いて、馬車が大きく揺れて止まった。
「どうした?」
「あ……うあ……」
御者の声は言葉にならない。
「おい、一体どうし……」
ジョシュアは馬車から降りかけて、『それ』に気付き、動きを止めた。
背筋が凍りつく。
馬車のすぐ前を大きな獣が横切っていた。胴は狭い道を塞ぐほど長いが、脚が短いため背丈は一ヤードもない。毛は黒く濡れそぼってびちゃびちゃと水を滴らせ、たった今川から這い上がってきたようだ。横顔は長く、ワニのように大きく裂けた口はずらりと並ぶ鋭い牙を歯茎までむき出して、荒く呼吸している。
「どうしたの?」
「出るな」
押し殺した声で言うのが精一杯だった。自分も馬車の中に戻りたい、と思ったが、ちょっとでも身動きしたら気配を察して飛びかかってくる気がして、指一本動かせない。
「それ」は悠々と道を渡りきり、視界から消えた。それでもしばらくはまだ近くにいるような気がして動けない。
数分後、ジョシュアはようやく大きく息を吐いて馬車の中に戻った。御者もそれで我に返り、懐から気付けの酒瓶を取り出して、ひと口あおると、再び馬車は走り出した。
「どうしたの?大丈夫?」
言いながら、ポーリーンはハンカチを出してジョシュアの額を拭いた。ジョシュアはそれで初めて自分が雨と汗でびっしょり濡れているのに気付いた。悪寒が襲ってきて全身が震えだす。
「……君の耳に入る噂話に、ロンドンに魔物が出たっていう話はあるかい?」
「え?いいえ。何故?」
「化け物がいた……今、そこを通っていった。あれは一体何だったんだろう」
ジョシュアは震えながら言った。
「化け物?どんな?」
「なんだろう。狼の毛の生えたワニみたいな」
「ワニ?」
ワニは爬虫類なので当然毛など生えていない。毛が生えていたら別の生き物だ。
やあ、まるで獣に喰い殺されたようだ
まるでライオンにでも襲われたみたいだわ
ヘイゼルとシャーロットの声が頭の中に響く。同時に、今朝見た死体が眼前にフラッシュバックする。視界が血の色で覆われ、カラスの鳴き声の幻聴がする。
「……っ!」
酷い耳鳴りがして、思わずこめかみを押さえた。
「大丈夫?」
何が起きたかわからないまま心配するポーリーンに、頷き返すのが精一杯だ。
(あれが……あの化け物が犯人なのか?)
地獄の遣いがやってくる