第一章 血に飢えたロンドンの夜と時間迷宮の館<3>

第一章 血に飢えたロンドンの夜と時間迷宮の館<3>

「シャーロット……育ちのいい女性はふつう殺人事件の現場なんて危険な場所には近寄るもんじゃないよ。なぜ君はわざわざ殺人事件と聞いて駆けつけてくるんだ?」

 今年十五歳になる異母妹のシャーロットは郊外の屋敷に両親と共に住んでいる。路肩に停められた一頭立ての小型の馬車で来たのだろう。

「死人はそこだ。もう見たろう。さあ帰って勉強でもしていなさい」

 そう言って閉めかけたドアの隙間からシャーロットはするりと中へ入った。

「宿題は終わったし家庭教師は風邪でお休みよ。お茶の一杯くらいいただいてもいいじゃない。いちじくのケーキを持ってきたわ」

 おとなしく引き下がるような妹ではない。通常、未婚の女性の付き添いは家庭教師が務めるものだが、今日は乳母が来たところを見ると風邪というのは案外本当なのかもしれない。しかし要領の良さにかけては家族の中で最も秀でている妹を、完全に信用してはいけない。現にシャーロットは、あっという間に客間のソファに落ち着いて優雅に紅茶を飲んでいる。

「二階からじゃあまり見えないのね。お兄さまのお部屋からのほうがよく見えそう」

「だめだと言っても行くんだろう」

 ジョシュアの家は十七世紀に建てられた四階建てのタウンハウスで、エヴァンズ卿が所有していたものを二十歳の年に譲り受けた。地下が台所、一階(グランドフロア)が玄関ホールと食堂、二階(ファーストフロア)が客間、三階(セカンドフロア)が寝室とゲストルームという、当時の一般的な作りになっている。四階(サードフロア)は使用人の個室で、ひと部屋はジャックが使い、もうひと部屋は空き部屋だが、こちらはジョシュアが持ち込んだ大量の本や、男爵が置き去りにしたコレクション、使っていない家具などで、ほぼ物置と化している。

 寝室に入るなり窓に駆け寄ったシャーロットは、嬉しそうに声を上げた。

「ほら、やっぱり!」

 確かに客間から一階分上がった寝室の窓からは惨劇の現場がよく見えた。視点が高くなるので家の柵や取り囲む警官に遮られることなく死体を真上から見下ろせる。

「本当はもっと近くで見たかったわ。でも警官がたくさんいたし、新聞記者も話し掛けてきたので諦めたの」

 さも残念そうにシャーロットが言う。記者、とはさっきの男だろう。

「何か話した?」

「まさか。ごきげんようってご挨拶しただけよ。それにしても見事にぐちゃぐちゃね。まるでライオンにでも襲われたみたいだわ」

 貴族の箱入り娘は、紹介されてもいない見知らぬ男性と軽々に会話を交わすことは教えられていない。

 窓の外にはカラスが集まってきていた。その中に白いカラスが二羽混じっている。シャーロットは軽く手を上げて、カラスたちに微笑みかけた。

「ロッド、リリー」

「カラスを連れてきたの?」

「ついてきたのよ」

 ロッドとリリーの二羽は、くるりくるりと輪を描いて飛び、街路樹の枝に行儀よく止まった。

 シャーロットはカラスを操る不思議な力を持っていた。

「操っているわけじゃないわ。ただ、何ていうのかしら。心が通じるだけ」

と、彼女は言う。幼い頃からよく動物に話しかける子どもだったが、とりわけ鳥はよくなついた。彼女が成長すると、鳥たちはなつくというよりも付き従っているように従順に振る舞った。今では屋敷の裏手の森に住むカラスは彼女の忠実な私兵のようだ。ロッドとリリーはその中でも珍しいアルビノのカラスで、純白の羽と赤い瞳を持っている。

「君が中世に生まれなくてほんとうに良かったと思うよ」

「今ごろ魔女裁判にかけられて火あぶりになっているかしら」

 西洋では昔からカラスと黒猫は魔女の遣いとされてきた。シャーロットの従僕……ならぬ従カラスたちは街路樹や屋根の上に落ち着き、おとなしく羽根を休めている。屍肉にたかるほど飢えてはいないらしい。地上では日が高くなるにつれて人通りが多くなり、野次馬も増えたので、やがて死体は大きな布で隠されてしまった。

「仕方ないわ、下りてケーキをいただきましょ」

 シャーロットは興が冷めたように言うと、さっさと寝室から出ていった。

 今朝方の霧はすっかり晴れ、客間の高い窓からは穏やかな秋の陽が差し込んでいる。シャーロットの金髪に陽の光が透けているのをジョシュアは眩しく眺めた。ソファに掛けている姿はまるで金のしべをもつ青い花が咲いているようだ。居を別にする異母妹という関係上ごくたまにしか会わないが、最近は見るたびに大人びて、かわいらしい少女から美しい女性へと変貌を遂げていく様に、毎度軽い驚きをおぼえてしまう。

 シャーロットが持参したケーキはドライフルーツを練り込んだパウンドケーキの一種で、クリームなどはついていない。大勢の使用人がいて大きな台所がある彼女の屋敷では、こういったケーキにはクリームを添えて出されていたが、この家では新鮮な玉子やミルクを常備する習慣がないのでケーキは切り分けたまま供された。

 薔薇の飾りのついた小さなフォークにケーキを載せては少しずつ口に運びながら、シャーロットは考え事をしていた。

「ねえお兄さま、」

「なんだい」

 ジョシュアはケーキの中の甘いいちじくを噛みながら鼻腔の表面に残る血の臭いの粒子をどうにか忘れようとしていた。

「あの亡くなった方はいったい何処から来たのかしらね?」

「好きだねぇ、君は。そういう話が」

「あら、だって気になるわ。お兄さまだってまさか全然考えていらっしゃらないわけじゃないでしょう?」

 ジョシュアは肩をすくめる。

「ねぇ、あの人は昨夜、一体どこに行こうとしていたのかしら?ここは高級住宅地だし、イーストエンドからも離れているわ。そのへんのごろつきが目的もなくうろつくような場所じゃないでしょう?だけど彼がこのあたりに住んでいたとしたらとっくに家の誰かが気づくと思うの。お客様だとしてもそうよ、予定していた訪問がなければ待っているおうちは不審に思うはずだわ」

「そうだねえ。幸いにして我が家の住人でも客でもなかったわけだが」

「ねぇお兄さま。彼はここではなくてどこか別の場所で亡くなったのじゃないかしら。だって昨夜はおかしな物音や叫び声は聞いていないのでしょう?」

「ああ。じゃ彼はどこかで殺されたあと、誰かが運んできたというの?あの様子じゃ馬車がだいぶ汚れたろうね」

「馬車じゃないのかもしれないわ……」

 シャーロットの瞳が遠くを眺めるようにうつろう。

「それに、そもそもこれは殺人なのかしら」

「どういうこと?」

「だってあれは、まるで獣が喰い散らかした後みたいだわ。狼か、ライオンか、何かものすごく獰猛な」

「その狼かライオンがロンドンに出たら大騒ぎだな。しかし人間の殺人者を見つけるより容易いかもしれないね。人間はたとえ本質が獣でも、兎のように臆病で穏やかな仮面をつけて平気で歩き回ることができるからな。でも謎はどんどん深まっているよ、シャーロット。昨夜は静かだったし、悲鳴も、もちろんライオンの唸り声も聞いていない。馬車は何台か通っただろうが、どこかでライオンが喰い散らかした『あれ』を運んでくるのはだいぶ手間のかかる作業だ。となると……」

「あっ」

 シャーロットが思いついたように声を上げた。

「ねえお兄さま、まさかライオンを飼っていたりしない?お仕事であちこち出掛けているでしょう?カイロかカサブランカで買ってきたとか」

「まったく君はとんでもないことを思いつくね。仮に買ったとしてどうやって連れてくるんだ」

「あら、もしかしたらかわいらしい赤ちゃんライオンだったかも。猫のようにちいさなライオンの愛くるしさに、どうしても欲しくなって、かごに入れて連れてきたけどそれがどんどん大きくなって……」

「僕は君の想像力がどんどん膨らんでいくことに驚いているよ」

「それでスラムからだまして連れてきた餌をぽいっと窓から……」

「人間を餌と言うな。それに餌なら最後までたいらげるだろう」

「そうよねえ。もったいないですものね」

「そういう問題じゃなくて」

「少なくとも、こっそり殺そうなんて思っていない人の仕業だということね。獣だとしても、おなかをすかせてはいなかったのでしょうね」

「腹が減っていないのに、人間を襲うかね?」

「……それで思い出したわ」

 シャーロットはケーキの最後のひと欠けを食べて言った。

「ねえお兄さま、カラスが何時に鳴くか知っている?」

「夜明け前かな。五時くらい?」

「夜中の二時よ」

「だいぶ早いな」

「うちのカラスだけかもしれない。毎夜その時刻に鳴きだすの。そしてとにかく昨夜の二時にはこう鳴いたのよ。『時の扉が開いた』」

「時の……?」

「それから『地獄の遣いがやってくる』って」

 客間が沈黙した。これはロンドンに飢えたライオンが出没するよりも突飛な話だ。

「……地獄の遣い?それが『あれ』を殺した?」

「さあ、わからないわ」

 シャーロットは窓を見てにっこりと微笑んだ。

「ただカラスがそう鳴いたというだけ。それで夜が明けたらお兄さまの家の前で人が亡くなっているって話を聞いて、見に来たのよ。もしかしたら殺人とは全然関係ないのかもしれないわ。お兄さまはどう思う?」

 窓枠にはロッドとリリーが行儀よく並んで止まっていた。


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