第一章 血に飢えたロンドンの夜と時間迷宮の館<2>

第一章 血に飢えたロンドンの夜と時間迷宮の館<2>

 死体は朝の陽に温められて、緩み始めているように見えた。皮膚は無残にやぶれ、引き剥がされ、ちぎれた腕と脚と胴体の断面がぬらぬらとした内部を晒している。野犬に腹を喰い破られたのか、内臓が引っ張り出されてぐちゃぐちゃと絡まり、周囲には赤黒い肉が散らばっている。流れ出た血液は路上にあふれるその他の雑多な汚濁に混じり合って石畳の溝を伝っていく。

 ジョシュアはハンカチで口と鼻を塞いだ。

「これはまた、片付けるのが大変そうだな……いつ片付くんです?」

「記録をつけたら今日中にはモルグに運びますよ。エヴァンズさん、遺体に心当たりは?」

「いえ、まったく」

「訪ねてこられたお知り合いとか」

「まず顔がわからない」

「ああ、ごもっとも。……それです」

 チェスターが指さした先には、確かにごろんと頭部らしき塊があって、よく見ると髪の毛らしきものがへばりついている。しかし顔は潰れた肉塊になり果てていて、人相を判別するどころではない。血に濡れて引き裂かれた衣類は色も柄もわからない。とにかくすべてが血まみれだった。

「やはりご存じないですかね」

 チェスターはいかにも不快そうに眉根を寄せたジョシュアの表情を解釈して言った。

「ご存知も何も」

 その時、死体の下で何かがきらりと光った。

「あれは?」

「おや、なんでしょう」

 ニコルが手袋をはめ、更にハンカチに包んでそれを拾い上げた。

 金色に鈍く光る懐中時計だった。

「貴方のですか?」

「いいえ」

「見覚えも?」

「ないですね」

「おや!それは証拠品ですか?」

 突然快活な声がして、二人は振り返った。

 声の主は薄茶色のスーツを着た、体格のいい若い男だ。

「おはようございます、チェスター警部。やあ、だいぶ酷い有様ですねェ。まるで獣に喰い殺されたようだ」

「新聞屋ですよ」

 チェスターは苦い顔をしてジョシュアに言った。

「お前さんも嗅ぎつけるのが早いね。生憎だがまだ話せることは何もないぜ」

「ジャック・ザ・リッパーが再びロンドンに現れたのでは?」

「そういう情報は入っていない」

「被害者はどこの誰ですか?女性?男性?」

「検死に回さないと何も言えんよ。さあ、帰った帰った」

 チェスターに軽くあしらわれた記者は、しかし今度はジョシュアに向き直った。

「どうも、タイムズのヘイゼルです。あなたはこちらのお屋敷の?」

「エヴァンズです」

「おいヘイゼル、勝手に話すな」

 警部が制止したが記者は意に介さない。

「ではあなたが通報した?殺害現場は見ましたか?」

「どちらもノーだ」

 上背も身幅もある男に畳み掛けるように詰め寄られて、ジョシュアはあからさまに不快感を示した。ジョシュアは小柄ではないが、どちらかといえば華奢な部類だ。

 ヘイゼルの後ろではスケッチを取っている記者もいる。ジョシュアは顔を見せないよう咄嗟に背を向けた。

「チェスター警部、僕はそろそろ失礼していいですか」

「ええもちろん。何かわかったらお知らせしますよ」

「ああ是非お願いします」

 別れの挨拶もそこそこに、ジョシュアはヘイゼルから逃れるようにドアを開けた。

「あ、ミスター、ひとつだけ」

「昨日はシティのどちらに?」

「銀行だ」

「8時まで?」

「パブで夕食を」

「どなたと?」

「……一人だ」

 ジョシュアは自分でも語調がきつくなっていることを自覚した。彼の苛立ちを警部も感じ取ったのか、それ以上は問い詰めてこなかった。

 

「……逃げましたね、サー」

 扉を閉めるなり、始終黙したままジョシュアに付き従っていたジャックが言った。

「ああいうタイプは苦手だ」

「記者ではなく、警部からですよ」

「ふふ。僕を犯人扱いするからさ。なんとも不愉快な朝だ」

「熱いお茶を淹れ直しましょう」

「ありがとうジャック」

 あの失礼な刑事はジョシュアの名を聞いて、彼の母譲りの黒髪や黒い瞳を無遠慮にねめ回していた。なんという偏見だろう。

 ジョシュアは男爵家の庶子だった。母の家は裕福だったがユダヤ系だったので、当時のエヴァンズ男爵  ジョシュアの祖父にあたる  の意に沿わなかった。だがジョシュアが生まれて間もなく祖父は病床に臥せり、数年後には他界してしまう。その間にジョシュアの父は幼いジョシュアを男爵家に引き取り、エヴァンズの姓を名乗らせた。

 ジョシュアは利発で素直な子どもだった。幸い母の実家でもエヴァンズ家でも、誰に疎まれることもなくすくすくと成長した。好奇心に満ちて輝く大きな瞳は愛くるしく、美しい艶をたたえて波打つ黒髪は形のいい額や細いうなじにふりかかって、その磁器のように白い肌を際立たせた。そんなジョシュアをエヴァンズ家の当主となった父も惜しみなく愛した。

 ジョシュアの父・エヴァンズ卿はジョシュアが八つの年に貴族の娘イザベラと結婚し、程なくしてジョシュアは寄宿学校 パブリック スクール に入る。数年後イザベラが年の離れた妹を産んだので、大学卒業後は家を出て、爵位は継いでいない。

「ふん。あの記者に便乗して皮肉の一つでも言ってやればよかったかな。『ホワイトチャペルの殺人鬼はまだ捕まえないのか』なんてね。ヤードの無能のとばっちりを食ういわれなぞない」

「得をしない喧嘩は売るものではありませんよ、サー」

 ジャックが嗜める。ジャックはジョシュアより二歳かそこら歳上で、元はエヴァンズ家の使用人だった。主人のことは子どもの頃から知っている。

「そういえば君もジャックだったな」

 ささやかな反抗のつもりだったが、もちろんジャックは涼しい顔で受け流した。

 数年前にロンドン中を震撼させた、ホワイトチャペル地区で起きた連続殺人の犯人はまだ捕まっていない。売春婦を殺して臓器を切り取るという犯行の手口から、犯人は「切り裂きジャック」の通称で恐れられていた。事件直後から多くの容疑者があがっていたが、決め手に欠け逮捕に至っていない。そして一説には、ユダヤ人の犯行ではないかとも囁かれていた。

 今回の事件も一見すると遺体の損壊状況から「切り裂きジャック」を連想させるが、被害者の衣類はどうやら男物のようだし、臓器を切り取られたというよりは身体をバラバラに引きちぎられた印象なので、冷静に調べればだいぶ状況が違いそうだ。そもそもこのあたりは売春婦がうろつくような地区ではない。

「獣に喰い殺された……か」

「どうかしましたか?」

「いや、あの記者が言っていたんだ。ちょっと気になってね。街道で追い剥ぎにあった死体を野犬が喰い荒らすことがあるのはたまに聞くが、このあたりにそんなに犬がいたかな」

「あまり聞きませんね。紅茶のおかわりはいかがです?」

「それより散歩に出ないか。血の臭いが気になって食事をする気も起きない」

「ではコーヒーハウスにでも行かれますか」

「いいね、そうしよう。付き合え」

 ところが二人が玄関に出た途端、その計画は流れてしまった。本日二組目の客と鉢合わせしたのだ。

「ジャック、血の臭いを嗅ぎつけてくるのは野犬だけではなかったようだよ」

「おはようお兄さま。刺激的なニュースを聞いて、我慢できなくて来てしまったわ」

 ドアの前には、乳母を連れ、パラソルをさした少女が無邪気に微笑んでいた。仕立てのいい紺色のドレスには、白いレースの襟と、ウェストから裾まで巻き付く水色の大きなリボンがあしらわれている。ドレスと揃いのリボン付きの帽子は、薄いブロンドの巻き毛によく映えていた。

 


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