第一章 血に飢えたロンドンの夜と時間迷宮の館<1>

第一章 血に飢えたロンドンの夜と時間迷宮の館<1>

 ツン、と鼻の奥に刺激臭を感じて、ジョシュアは浅い眠りから覚めた。

「血のにおいがするね?ジャック」

「窓を閉めましょうか、サー 」

 ジャックは持ってきた水差しをベッドの脇に置く。

「いや、構わない」

 ジョシュアは寝間着のまま窓辺に寄る。

 十月の朝は冬の足音が迫ってくるように寒い。太陽は街を覆った薄い霧に遮られてぼんやりと霞んでいる。

「ほんとうにロンドンは物騒な街だ。もうすぐ二十世紀になろうというのに毎日のように道端に死体が転がっていて、まるで戦場と変わらないじゃないか。ご覧、ゆうべは僕が眠っているすぐ下で人殺しをした者がいたらしいよ」

 窓から外を見下ろすと鉄柵に囲まれた狭いテラスがある。その柵の前の石畳に、無残に引き裂かれた死体が転がっていた。それが人間だったと判るのは、引きちぎられた衣服が死体に絡みついているからだ。

 死体を囲んで数人の警察官が小さな手帳にメモを取ったり遺品を調べたりしている。集まりだした野次馬を追い払っている警官もいる。

 寝巻き一枚  膝丈のリネンのシャツだけではさすがに寒くなってきて、ジョシュアはガウンを羽織った。窓を締めて暖かい居間に降りようか。ジャックが朝早くから暖炉を燃やしてくれているはずだ。そのとき、家の呼び鈴が鳴った。

「警察かな。客間に通しておいてくれ。着替えたら出るよ。それと、お茶を一杯頼む。ミルクを入れて」

 

 シャツとベストとズボンに着替え、室内履きから靴に履き替えて客間に下りると、黒い服の警官が二人いた。中年で背が低く腹に肉のついた男と、痩せて背の高い若い男で、中年の方が挨拶と部下の紹介をする。後ろに控える若い警官は駆け出しのエリートにふさわしく色白で、唇は薄く、濃いブロンドの髪は耳の上で短く切り揃えてきっちりと分けられ、撫で付けられていた。

「ロンドン警視庁のチェスター警部です。こちらは部下のニコル。朝早くすみません、ミスター…」

「エヴァンズです。ジョシュア・エヴァンズ」

 チェスターはこの家の若い主人の黒髪にちらりと目を走らせて続けた。

「ミスター・エヴァンズ。実は御宅の前で今朝方遺体が発見されまして」

「そのようですね」

 ジョシュアは自身の黒い巻き毛を掻き上げ、ソファに腰掛けると紅茶をひと口飲んだ。

「失礼ですが、こちらの家に住まわれているのはお二人だけですか?」

「ええ、私と彼だけです。昼間は通いのメイドが料理と掃除をしに来ます」

「昨夜不審な物音や声を聞きませんでしたか?」

 ジョシュアはもう一口お茶をすすり、立ち上る香りを嗅いだ。

 紅茶は濃いめ、ミルクは少なめ。

 ジャックはいつもきちんと同じ味を作り出す。茶葉の目利きから淹れ方まで、これまで雇ったどのメイドも敵わない。

「……特に気になるようなことはなかったな。いつもと同じ、静かな夜でしたよ。ジャック、君はなにか気づいたかい?」

「いいえ」

「昨日はずっと家に?」

「いいえ、昼はシティへ出掛けてましたよ」

「何時にお帰りで?」

「八時か八時半かな。その時は死体なんてなかった」

「ふむ……ご覧になりますか?表に出て」

 死体を見ろ、と言われるとは思っていなかったので、ジョシュアは思わず後ろに控えていたジャックと目を見合わせた。


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